
ヒットラーは自殺しなかったと証言したスパイ、ベラスコ
ヒットラーの絶大な信頼を得て、1945年の3月以降、ヒットラーのベルリンの地下官邸で勤務していたユダヤ系スペイン人、ベラスコは、終戦前後のヒットラーの周辺について、戦後に証言しています。1945年4月30日、ソ連軍がベルリンを制圧し、帝国議会の屋上にソ連国旗を立てたときには、もはや、ヒットラーはベルリンにはいなかったと証言しました。
ソ連軍がドイツのベルリンまで攻めた時に、帝国議会の屋上にソ連国旗を立てた

アメリカ軍による、ヒトラーは死んだという新聞による報道

終戦の翌年、1946年5月7日、ベラスコとナチス副総統、マルチン・ボルマンは、スペインの北西海岸の漁村、ビラ・ガルシアからUボート、U-313に乗船したというのです。そして、18日間の航海の後、U-313は、アルゼンチンに到着したと。
アルゼンチンの港に到達したドイツ海軍Uボート。U-977

ボルマンの証言
ボルマンが信用する部下数人を使ってロタック・アム・エルヘンの要塞から更にドイツ領土内を横断して船でヒトラーをノルウェーに移した。ヨーロッパからの脱出準備を2人の部下が整えるまでのあいだヒトラーをノルウェーの寒村に待機させた。ヒトラーの現在の居場所は話せない。連合軍はヒトラーの「自殺」に満足したろう。ボルマンは手際よく運んだと自慢気に語った。
ボフマン(総統秘書長、副総統、ナチ党官房長)

べラスコの証言
ベラスコは、1946年6月3日、アイヒマンをマドリードの空港から、アルゼンチンのブエノスアイレス空港に送り出したと証言しています。
マドリードのアルゼンチン大使館でクレメンス名義のパスポートを入手した私は、クレメンスを空路ブエノスアイレスヘと送りだした。マドリードのバラハス空港で別れる寸前に、クレメンスは自分の本名はアイヒマンであると打ち明けた。それは1946年6月3日のことだった。
アイヒマン(ドイツの警察官僚、最終階級は親衛隊中佐)

ナチの避難場所の山荘(アルゼンチン)

ヒットラーは、アルゼンチンの田舎町で、96歳まで生きていたかもしれない。
ヒットラー夫妻がアルゼンチンに隠れていたとする情報は、結構随所で見つかります。具体的な町の名前がいくつか出てくるのです。目撃されたり、噂になったりしたら、ほかの町に移動して隠れていたのでしょうか?また、アルゼンチンではなく、チリにいたという話も、時々出てくるのですが、南米の地図を見てみれば、アルゼンチンの隣の国であり、ヒットラーがいたとされるバリローチェという国境の町からは、山ひとつ超えれば、チリでした。
FBIの最近の報告に「ヒットラーはアルゼンチンで生きていた」とするものがあるとのネット文書も見つかります。ここでは、複数のアルゼンチン国籍の人たちが、自国でヒットラーを見かけているとの証言があること、古いアルゼンチン警察の記録にも、ヒットラーが生存していて、目撃されているとあることが記されています。 あまりにアルゼンチンでのヒットラー目撃証言が相次ぐので、FBIも調査せざるを得なくなった模様です。ベルリン陥落の際にヒットラーを生け捕りにするように命じたソ連のスターリンは、トルーマンとチャーチルとのポツダムでの会談の際に「ヒットラーを取り逃がした。どこに逃げたわからない」と伝えたそうです。
南米での晩年のヒットラー(Kurt Tucholskyより)

補足:
アドルフ・ヒットラーとナチスの疑惑
●ナチスドイツのスポンサーは、ロスチャイルド、ロックフェラーなどのユダヤ財閥であったと解っている。
●ナチスは、欧州のユダヤ人を迫害することで、ユダヤ人のイスラエルおよびソ連への流出を促した。結果、戦後イスラエルにユダヤ人が集まり、建国が可能になった。また、レーニン、トロツキーらユの作った国家であったソ連もまた、ユダヤ人口を増やした。 ヒットラーは、イスラエル建国の最大の功労者である。
●ナチスの高官には、ヒットラー以外にもユダヤ人疑惑のある人物がたくさんいる。ヒムラー、ボルマン、アイヒマン、 ハイドリヒ、ローゼンベルグなど、ユダヤ人だった疑惑がある。
●アドルフ・ヒットラーの父親、アロイスは、ウィーンのアンセルム・ソロモン・ロスチャイルド男爵が、家政婦(ヒットラーの祖母)に産ませた非嫡出子であった可能性が高い。ヒットラーは、欧州ユダヤの帝王、ロスチャイルドの直系子孫だった 可能性が高い。
ヒトラーの家系図

ソース元:リチャード・コシミズより
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